「~された」を「~した」に変えたら精神的に楽になった。やり方紹介

どうもこんにちはー!もう10月に入って「うそやんこの前正月過ぎたばっかやん」と焦りまくっているchicacoです。

虐待によりメンタルを病んで引きこもり、何も出来なかった私ですが、普通に生活できるようになる少し前にやっていた「精神的に楽になる方法」「自分の力を取り戻す方法」を思い出したので、この記事にまとめたいと思います。

確かその”普通に生活できるようになる少し前”の時期に至るまでには、諦めだったり開き直りだったりの時期が長いことありました。

その後にこの「切り替え」の時期が来たように記憶しています。

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物心ついた時から被害者意識が強かった私

これは多分実母のことを見て身に着けた考え方だと思うのですが、とにかく被害者意識が強かったです。

母がよく言っていました。「祖母(母にとっては姑)のせいで私は~~な目にあわされている」「旦那のせいで~~~という不幸な目に合っている」と。

そしてこうも言いました。「お前が産まれてきたせいで、お母さんたち家族は不幸にさせられた。お前は私に罪を償わなければならない」と。

そういった考えが身に着いた私は、こう考えるようになりました。

「友達が私が好きなお菓子を先に取った。そのせいで私は食べたいお菓子を食べることが出来なかった」

本当なら自分の意見を主張すればよかっただけなのでしょうが、それが出来ないのです。ただただ耐えて、何も言わず、そのせいで不利益を被れば「あいつのせい」だと思い込みました。

そのうちに、あいつもこいつも憎くなりました。そして、自分がどうしたいとは一切言わないのにも関わらず、どいつもこいつも私を嫌っているんだ、だから嫌がらせするんだと考えるようになりました。

もちろん、イジメなどはまた別の話です。

イジメられた側からすれば分かる話ですが、モノを隠される・破壊されるなど、完全に「わざとやられた」のが分かりますので…。

今回まとめるのはあくまで、卑屈にならないでいい事まで勝手に他人のせいにしていた部分や、他にいいやり方があったことなどについての話になります。

考え方ひとつで、自分がどんどん非力になっていく

例えば母を助手席に乗せてドライブしていた時(と言っても買い出しの時の話ですが…)

母「この音楽何?下手なミュージシャンだね」

私(何も言わず音楽を消す)

⇒母のせいで好きなミュージシャンをけなされた。自分の車で好きな歌を聞いてはいけないのか、理不尽だ。私は母のせいで好きな音楽を聴く機会を奪われた

以前の私の考えでは、こういう経過をたどることになります。

まぁ、人が聴いている音楽をけなす母も母なんですが、それは置いておいて、私はここまで落ち込まないといけなかったんでしょうか?

今になって分かりますが、こういった考えをすると、途端に自分が非力になるのです。

なぜなら『他人に自由に操られる自分』というイメージを強くしてしまうからだと思います。『他人のせいでこうなった』ということは、『私は他人に好き勝手されてしまう存在なのだ』と自分に言い聞かせていることなのではないでしょうか。

私は多分、この考え方を強く持って生きてきたため、いつも「あの人のせいでこういう行動をするしかなくなった」「あいつのせいでこういう風にされてしまった」と思い込んでいました。

そのせいで、どんどんと自分が弱く、何の力も持たない存在なのだと自分自身に刻み付けることになったのではないでしょうか。

無理やり考え方を変えてみたら世界が変わった

そういった考え方というのは癖のようなもので、ついつい気付けばそういう思考回路になっているのです。

そこで私は、紙に書き出すことにしました。そして無理やり考え方を変えてみることにしたんです。

例えば先ほどの状態を、こう書き換えます↓

車に乗って好きな音楽をかけていたら、母に「この音楽何?下手なミュージシャンだね」と言われた。
私は、好きなミュージシャンをけなされて腹が立った。

そこまで言われてまで無理やり音楽を聞く必要はない。また何か言われたら、もっと嫌な思いをするだろう。私は、私がこれ以上嫌な思いを母にさせられるのを防ぐため、音楽を切ることにした。
そのお陰で、私はその後これ以上嫌な思いをすることなく、家に帰ることが出来た。音楽は、母がいない時に聴くことにしよう。

どこが違うかと言うと、「私は、私がこれ以上嫌な思いを母にさせられるのを防ぐため、音楽を切ることにした」の部分です。

ここが重要です。

「~させられた」のが「~した」に変わっています。

『かけていた音楽を消す』という行為を「させられた」のか「自分でした」のか、そこが変化しています。

「~した」と言い換えたら自分の力が増していった

私が思うに、「~させられた」という風に受け取ってしまうと、同時に「他人の力によってどうとでもされてしまう自分」というのが浮き出てしまうのではないかと。

全く同じ行動でも、「~した」という風に受け取った場合、「自分の意思で決定し、その決定に従って行動した自分」という存在に気づくのではないかなと考えました。

例えば先ほどの話でも、やったことは同じです。車中でかけていた音楽を切っただけの話です。

でも、「母のせいで仕方なくそうするしかなかった自分」、「母から自分を守るためにあえてそうした自分」どちらにも受け取ることができます。

前者はすごく自分が弱い存在に思えてしまいますが、後者だと頼もしいようにすら感じました。

例えば母の機嫌が悪くて、居間で食事が食べられなかった場合。(そもそも他人の機嫌を取る必要がないという話は、また別として今回は置いておくことにしております)

「母が怖いせいで、寒い廊下でご飯を食べるしかなかった。寒かった。辛かった」

…と考えていた私ですが、こう考えてみました。

「母が不機嫌で怖い。廊下は寒いが、恐ろしい母はいない。こちらで食べた方が精神的に楽だし、あれこれ言われないので私にとっても良いことだ。寒いが厚着をすれば問題ない。私は安全な場所にいることを選択するぞ」

驚くことに、それだけで自分に力がよみがえってくるのを感じました。

私には選択し、決定し、行動する力があるのだ。そうすることで、私は私を守ることができた。私は他人に好き勝手されるような存在ではない。自分で考えて行動することが出来るのだ。

そういう風に感じました。

自分で自分を危機から守ってもいいと思えるようになった

実は、例えば他人が機嫌が悪いのは自分のせいだと勝手に落ち込んだり、怒られるかもしれないという理由でわざと自分にとって不利なようにすることもありました。

寒くても暖房を付けないとか、お風呂のお湯がほとんどなくてもお湯を足さないとか、具合がどんなに悪くても病院へ行かないとか、欲しいものがあっても欲しいと言わないようにするとか…そうしなくていいものまで、そうやっていました。

その理由はやはり母の暴力や暴言にあり、何をやってもやらなくても危険だという状況に適応するための方法だったのかもしれません。

しかし、今は私は大きくなり、母より力が強くなったのです。

”幼く力を持たない私”のやり方は、危険に身をさらさないために、あえて何もしない、決定権を持たない、持っていても行使しないというものでした。

しかし、今なら変えても良いのではないかと考えました。

母が不機嫌であれば自室にこもる、それを怒られたら父に言って止めてもらう、父が動いてくれない場合は就労支援施設などのカウンセラーの力を借りて、父に防波堤になるよう言ってもらうなど、色々と行動しました。

精神科の院長や、肩書の多いカウンセラーの力を借りることで、父は母をいさめてくれるようになりました。

それもこれも、『自分で自分を守ろう、なぜなら私にはその力がある』と思えたからです。そのため行動しようと思えました。

力が取り戻せたら、行動が変わっていった

体調が悪い時に家事をやれと言われた時、「これもリハビリになり、将来私が元気になるためには必要なことなので、やってやろう」と思ってやってみたり、本当にヤバイ時には断って、それで母に怒られたとしても絶対に自室から出ず、部屋の内側に鍵を取り付けるなどしました。

(当時はどうしても体調的に自分1人で家を出られなかったため)

ホームセンターへ行けばけっこう色々と鍵が売っています。扉を壊して強行突破するような人でないことは分かっていたので、こういう風にしました。

ある時、「母に不要な力を与えていたのは、私自身だったのかもしれない」と思いました。

動物の話になりますが…

小象の頃からずっと足かせをしておくと、大人になって簡単に足かせを外せるくらいの力持ちになっても、象は逃げださないという話を聞いたことがあります。

大人の象なら簡単に破壊できるような小さな足かせでも、「壊せない」と思い込んでいるので、逃げようとも思わないのです。

私は子供の頃に無力さを感じ、大人になって母より強くなってからもその考えを変えられず、母が力を持たなくなってもひたすらにサンドバッグになっていました。

本当は、私はもう大きな大人でした。自分で自由に行動してよかったんです。

全て母の許可がいると思い込んでいましたが、自分で考えて行動してよかったんです。「~された、こうするしかないのだ」ではなく「~しよう、自分のために」と思って行動してよかったんです。

そう気づいたのが30歳目前の頃でしたが、急に行動が変わりました。

「今の自分にできることをやってみよう」と思い、行動に移すようになったんです。それで母に怒られようが知りません。今の私で出来る仕事を探したり、体力をつけるための運動をやったり、その為に出掛けたりし始めました。

……とか言って、まだまだ人間が怖くて結局、誰かに雇われるという働き方はできてないんですけどね(;・∀・)

雇用関係にあると弱者と強者という関係になって、暴力振るわれて危険な目に合うんじゃないかとか思いこんじゃっててなかなか外に働きに出るのが怖くてですね…

「面接でいきなり暴力振るわれたら生きて帰れるのか?」とか本気で考えてるあたり、まだ虐待の爪跡が残ってるなぁという感じですが。

まぁ、それはそれ。今は直接雇用ではないちょっとしたお仕事をやれてて、それだと危険がないということで続けられています。

直接会わなくていいって、安全でいいよね(*´▽`*)

……と、そんなこんなでえらい長文になってしまいましたが、「~された」を「~した」に変えるだけで、けっこう力が甦るよ!というお話でした。

ただ、本当に自分でどうしようもない場合は、一人で頑張らず誰かの力を借りましょう!

例えばうちの母がガチでヤバい人だった場合、”逃げるが勝ち”だったと思います。そんな感じで、あくまでその環境によって成果は左右されると思いますが、せっかく思い出したので自分用メモってことでまとめてみました。

ではでは~

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